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【水辺の詩】〜佐賀新聞 H22年11月21日〜


先代おかみのインタビュー

【人情味あるにぎわいを】

カランコロン、カッカッカッ。
早朝から川辺に向かって地元の人たちが急ぎ足で懸けていくげたの音。かつての嬉野川の日常風景。旅館「大村屋」の先代社長・北川チタさん(82)は「『朝からうるさくて寝られん』とお客さんに言われたこともありましたね」と川のそばが宿だった当時を懐かしむ。

1962年(昭和37)年の水害までは温泉が川底からわき出していた嬉野川。まちの人たちはホウレンソウなどの野菜や卵をざるに入れてその場でゆでたり、温泉で洗濯や食器洗いをする人たちが川床に集まっていた。
チタさんも掃除当番の日はお湯をくんだバケツを持って登校した思い出がある。嬉野川は嬉野温泉街に住む人々の暮らしとともにあった。

「橋の上によじ登ってそこから飛び込んだらガキ大将。大人に見つかったら怒られていたけど」。橋とは現在の「シーボルトの湯」前にかかる鉄橋のこと。川近くでたばこ店を営む小野原卓男さん(85)は、子どものころに遊んだ記憶を鮮明に覚えている。上流になかった当時は水量が今よりももっと豊富で、夏の暑い日は泳ぎにくる子どもたちでにぎわっていた。

夜の嬉野川はまた違った表情をみせる。川は嬉野川でもっとも観光客でにぎわい、情緒あふれるスポットとして知られるいわば“顔”だった。かつての「大村屋」でも朝から宴会することも珍しくなく、芸妓のお呼びがかかっていたという。小野原さんも「三味線と尺八の音で寝付き、その音を聞きながら目覚めた」と振り返る。

それから数十年。人々の生活様式が大きく変わったこともあり、観光地としての嬉野も大きく様変わりした。バブルを経験したものの、旅館が大型化して人々が温泉街を出歩かなくなっていく中でにぎわいの質もどこか変わってしまった。
そしてバブル崩壊。

一つの時代の終わりを象徴するかのように、大正ロマンの風情を残すとんがり屋根の公衆浴場「古湯」が1996年に閉鎖、その後取り壊された。

「人情味あふれていたあのころのにぎわいを取り戻したい」。

地元の人たちの気持ちは一つだ。
合併して誕生した嬉野市が合併特例債を活用して「古湯」を復元した「シーボルトの湯」(今年4月オープン)はそのシンボルとしての役割が期待されている。

チタさんは「川の流れは昔とずいぶん変わったけれど、これからは若い人にこの素晴らしい川を頑張って守ってもらわんとね」。

その思いを引き継ぐべく、孫で後継者の北川健太社長(26)が卓球大会を仕掛けるなど温泉街を盛り上げようと奔走する。
嬉野川は嬉野温泉の発展を見守り続けることだろう。